大谷翔平選手といえば、驚異的なパフォーマンスと謙虚な人柄で誰からも愛される存在ですね。もし自分が母親の立場だったら、こんな息子がいてくれたらと願ってしまうでしょう。しかし、現在の輝かしいキャリアの背景には、どのような少年時代があったのでしょうか?
今回は、彼の幼少期を詳しく鑑定し、その成長過程で見えてきた出来事について探ってみました。彼の人生の設計図には、どのようなタイミングでどんな出会いがあり、そのチャンスをどのように活かしてきたのかを、エピソードを通じて紐解いてみたいと思います。
名前から見る資質
まずはお名前を鑑定してみました。「おおたにしょうへい」を数字に変換し、彼の才能や資質を調べると驚きの事実がわかりました。彼の名前の数字そのものが、偉業を成し遂げた人たちと同じ数字を持っていたのです。たとえば、パナソニックの創業者で「経営の神様」と言われる松下幸之助先生や、日本の漫画やアニメの父とされる手塚治虫先生と同じ総数「134」になります。この名前の総数を見るだけでも、彼が大きな可能性を秘めていると感じさせます。
野球との出会い
大谷選手は元社会人野球選手の父親と元バトミントン選手の母親というアスリートの血筋を引いています。幼少期にはバトミントンと水泳を習っていたそうです。そんな大谷選手がリトルリーグに入部したのが8歳の時。この年は将来を見据えた展望を決める転換期となっており、その時の出会いが彼の野球人生のスタートだったと考えられます。
彼の自立成長期
大谷選手の自立成長期は、15~19歳(2009-2013年)です。自立成長期とは、自分を成長させるような出来事が起こりやすく、自分の人生と向き合う時期。この期間の中でも特に転換期と重なる時期が重要で、彼の場合は高校1~2年生(2010-2011年)の2年間です。
花巻東高校に入学し、2年目の夏は甲子園に出場しましたが、左足を痛めていたため登板を回避し、実力を発揮できずに敗退した経験があります。その悔しい経験から、冬には股関節のトレーニングと体重増に重点を置き、これが後の二刀流につながっていったと言われています。
その翌年(2012年)に北海道日本ハムファイターズに入団。メジャー行きを宣言していた大谷翔平選手は、栗山監督との出会いにより、日本のプロ野球を選び、二刀流として活躍できる選手へと成長しました。この5年間の自立成長期で得た経験と学びが、現在のスーパースター大谷翔平選手の礎となり、彼の輝かしいキャリアを支えているのではないかと感じています。
やまと式かずたま術鑑定士 藤咲あかり